虚伝と背反 19
俺の身体が完全に回復するには、かなりの時間がかかった。
正確な時間はわからないが、巡の話を聞く限り四季が一周するくらいは経っているようだった。
四季と言われても春には桜が咲いて、夏は日差しが暑くて、秋は紅葉が綺麗で、冬には雪が降るという知識しか持っていない。
地下に来る前に外は見たことがあったが敷地内は季節を感じるものが無く、雪が降っている所も見たことがない。
外へ出たらまずは四季を感じたい。
その為にも、必ず脱出を成功させなくてはいけない。
先生とは和解した。
あそこまで酷いことを言ったにも関わらず、向こうから謝ってきたから、俺としては申し訳なかった。
今は毎日体調の変化を調べてもらい、数日間薬や治療が無くても耐えられる身体になるように最善を尽くしてくれている。
調子の良い日は武器を使う練習をした。
勿論、巡にはバレないように。
こっそりナイフを持ち出して投げたり、振ったり、色々な使い方を独学で覚えた。
要は当てられれば良いんだ、自分のやり易い方法を必死に探した。
しかし、練習後にナイフを磨く時には、この力は使う機会が来ないと良いなと思っていた。
ナイフを当てれば傷つく事なんて、自分が一番わかっているから。
争いは嫌い。人を傷つけるのも、傷つけられるのも嫌い。
それでも抵抗しなくてはいけない時だってある、それは仕方ない事だと思う。
殺らなきゃこっちが殺られるから。
そんなに弱気で、逃走なんてできるのかな。
俺が失敗すれば、巡だって危ないんだ。
巡が俺の為に一緒に逃げてくれるのなら、俺は巡と逃げる為に戦わなくてはいけない。
どんなに嫌でも、戦わなければここで終わる。
_だったら、戦うしかないよね。
必死に練習したせいか、ある程度なら使いこなせる程度にはなっていた。
持って使うよりも、投げる方が得意ではあったが本数に限りがある為、あまり使う機会は無さそうだった。
初めは顔から転ぶ程走るのも下手だったが、地下の廊下を使って練習をしたので、走りも悪くはなかった。
問題は薬が切れるまでしか動けないのと、体力が追いつかない事だった。
元の運動神経は恐らく悪くはなかったのだろうが、仮にも持病があった身体だ。体力はどんなに特訓してもあまり進歩が感じられなかった。
体力については、速さでカバーするしか無さそうだ。
自分のできる最速で出口まで駆け抜けるしかない。
その間に研究者に遭遇すれば、足止めを掻い潜る力も必要になる。
考えること、やることは山積みだ。
俺にできることは、これくらいしかない。
足を引っ張らないように、相手をどれだけ錯乱させて逃げられるか。
兎に角、それだけを考えて特訓していた。
***
遂に作戦決行の日が来た。
巡の話によれば、もう季節は冬らしい。
巡に出会って二年が経過していた。
ずっと地下で過ごしていれば時間感覚も麻痺して、大した時間には感じていなかったが。
巡は先に監視室に行き、監視カメラを全て停止させ、この施設の全てのロックを解除しその後、資料室から俺の情報の入ったファイルを持ち出す。
混乱の間に俺は院長室に向かいマスターキーを奪う。
その後、巡と裏口付近で合流し脱出した後、巡が用意した車に乗って付近から離れる_といった、言葉にしてみるとあまり現実味の無い作戦になってしまった。
しかし、内容を細かく考えたところで実行できなければ意味がない。
俺と巡にできる限界を考えたはずだ。
監視員達が寝静まった頃、作戦を開始した。
巡の背中を見送った後、俺も地下から出た。
まだ流石に騒ぎにはなっていない為、扉が半開きになっていた治療室に人が居ないことを確認し、入室した。
あまり使われていない部屋だったのだろう。
埃が舞っていて、あまり居心地は良くない。
そもそもこの施設に居心地が良い場所など、存在しないに等しいのだが。
何か無いかと部屋を漁ってみると、数本のメスが捨ててあるのを見つけた。
恐らく、同年代の子達が生きていた時のものが捨てられていなかったのだろう。
抵抗の為の武器なので、衛生面は関係ない。
巡が貸してくれたウエストポーチにメスを入れ、部屋を後にした。
廊下に出ると遠くから数人がバタバタと走る足音が聞こえた。
巡が動き始めたのだろうと思い、院長室へ向かう。
不自然なくらい警備が薄い。
院長といえば、この施設で一番偉いのだから、もっと手厚く守られて当然のはず。
院長室の扉の前まで辿り着いたが、職員には一人も遭遇しなかった。
院長が真っ先に逃げた可能性もある。
その場合はマスターキーが無い可能性が高い。
もしそうなれば、この時点で計画は失敗したと言っても過言ではない。
意を決して扉に手をかける。
鍵はかかっていない、そのまま扉を開けてメスを構える。
奥には椅子に座った院長がいた。
俺が入ってきた事に気づいているものの、こちらに襲いかかる様子も無い。
「やはり君か…」
院長はゆっくりと口を開き、話始める。
「私は人道に反した行いばかりしてしまった。君の友人達を殺し、君の人生から光を奪った。しかし、私にも理由があったのだ」
院長は俺の傍に寄り、屈んで俺の肩を掴んだ。
「赦してくれとは言わない、そうはしてくれないだろう?」
俺は視線を反らす。
そんな目で見ないでほしい。
「私が死んだとしても、実験を続けようとする輩は少なからずいるだろう。外に出るのは危険だと言っても、君達は出ていくのだろう」
院長は俯いたまま顔を上げない。
今なら殺せる_そう思いナイフを項に当てる。
突き刺そうとした瞬間、
「…私の娘に、渡してくれないか」
院長は小さな声で呟き、俺の首に長い紐のついた小さな袋をかけた。
院長が俺から手を放した隙に、背中を突き刺した。
刃は刀身が完全に埋まるくらい深く刺さり、それを勢いよく引き抜くと鮮血が辺りに飛び散った。
院長は僅かだが、まだ息があった。確実に殺さなくてはいけない。
俺は倒れた院長の髪を掴み、首筋にナイフを当て、目を閉じた。
その目は開かずに首の太い血管の辺りを切りつけた。
これ以上は見ていたくなかった。
マスターキーを奪って早く脱出しようと、一先ず院長の白衣を探ると鍵の束が見つかった。
これを持って巡の元へ行こう、そうすれば外で暮らせるんだ。
しかし今は喜びよりも、自分の意思で人を殺めたという実感を持ちたくなくて必死だった。
娘ということは、この人には家族がいたのか。
自分にはわからない感覚でも、常に一緒にいた自分に最も近い人が誰かに奪われたなら、誰だって動揺するだろう。
奪った張本人を恨むかもしれない。
それだけの事を俺はした。
その現実が恐ろしくて目を背けたくなる。
袋を握りしめて只管走った。
しかし、あまりにも順調すぎる。
もう全員逃げてしまったのかと思うくらい辺りが静かだ。
巡が余程上手く行ったのか、院長は予めこの事を想定していて職員を真っ先に避難させたのか。
それとも、他に動いた人物がいるのか。
突如、甲高い笑い声が廊下に響き渡った。
前方から物凄い勢いで、誰かが迫ってくる。
それは、薬の下がっていない点滴台を持って走ってくる白い髪の少女の姿_
正体がわかった頃には目の前に到達していた。
殺される_と、目を閉じていたが、彼女は俺の肩を掴んで俺を飛び越え、そのまま奥へ走っていった。
奥から人の声が聞こえる。
捕まるかもしれない、けど少女と同じ方向へ行かなくては巡と合流できない。
意を決して走り始めた。
別れ道になっている部分を無視して真っ直ぐ走り続ける。
一瞬だけ進まなかった通路の方を見ると、監視員に思いっきり点滴台をぶつける少女の姿があった。
あんなに聞き分けの良い彼女が何故暴れているのか。それは俺にもわからない。
子供とはいえ、運動神経の良い彼女が振るう点滴台に当たればかなり痛いだろうし、怪我の可能性も大いにある。
それに彼女は視力がかなり悪かったはずなのに、前に俺に会いに来た時といい今といい、全く目線に迷いがない。
もし俺と同じ薬を飲まされて視力を得たとして、副作用で暴れているのなら尚更危険だろう。
俺は彼女と戦えるほどの力は無い。
狙われたらもう外へは出られなくなる。
更に足に力を入れて走り出した。
恐らく警備が薄かったのは彼女がほとんどの監視員を倒してしまったのだろう。
俺でもあの日に吸血できたくらいだ、もしかすると何て事無いのかもしれない。
巡との合流場所まであと少しだ。
俺は期待を胸に前へ前へと進む。
巡の姿が見えた瞬間だった。
足に重い衝撃が伝わった。
後ろで聞きなれない乾いた音がした。
巡の驚いた顔が視界に入る。
そのまま床に倒れこむ瞬間、後ろから鈍い音がした。
振り返ってみると、あの少女が監視員に馬乗りになって点滴台で只管監視員を殴打していた。
恐らくここまで事が上手く進んだのは、彼女が暴れていたせいだ。
_もし、彼女が本当に自分を守ろうとして戦っていたのなら?
あの時の彼女は嘘をついていなかったのかもしれない。
彼女に言いたいことは山程ある。
何か一つでも伝えようと身を起こし、口を開く。
しかし巡に抱えられ、そのまま外まで連れ出されてしまった。
巡は何やら焦った様子で、俺を抱えて走っている。
状況が全く理解できず、負傷した足では抵抗して戻ることもできない。
「ねぇ巡_」
言いかけたその時、後ろから爆発音が響いた。
先程までいた施設は炎が燃え盛っていて、ついさっきまで、そこにいたとはとても思えない。
「あの子は君に恩返しがしたかったって」
巡の表情は見えない。
恩返しなんて、されるような事をした記憶もない。
「あの子が言ったんだ、どんな手を使ってでもここから出るんだって」
少しだけ、巡の言い方が重く感じる。
巡は施設から離れながら、全てを話してくれた。
あの子は本当に心配していてくれたこと。
彼女もまた、実験台にされて辛い思いをしていたこと。
限界まで監視員を引き付けて、施設と共に燃える覚悟をしていたこと。
そして巡もまた、監視員を何人か口止めに殺したこと。
最後に、既に院長が職員をほとんど避難させている為、これから逃げたとしても追われることになる事も。
俺は人が信用できなかった。
何かしら裏があると思いこんで、優しい手を払い除けていた。
本当は悪い人ばかりではなくて、良い人もいる事も理解していなかった。
その結果、一緒に過ごした仲間を失った。
結局、俺も何も変わらなかった。
これからは後悔しないように、自分の大切なものを守れるくらい強くなりたい。
施設を出る瞬間の彼女は一瞬だけ穏やかな笑みを浮かべていた。
その笑顔が鮮明に焼きついて離れない。
二度と失いたくない。二度とこんな思いはしたくない。
だから、守るために俺のやり方で立ち向かおうと思う。
空を見上げると雪がひらひらと舞っていた。
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