虚伝と背反 16
巡は、この暗い地下室でも基本的な生活できるように、ふかふかの毛布と、大きい時計、小さいランタンのようなライト、そして寂しくないように大きな熊のぬいぐるみを用意してくれた。
昼間の時間は巡と一緒に勉強したり、本を読んでもらって過ごし、怪我が治るまでは、丸一日付きっきりでいてくれたが、怪我が治ってからは夜になったら巡は、職員に割り振られる自分の部屋に戻ってしまう為、その後はぬいぐるみと過ごした。
巡はよく外の話をしてくれた。
学校はどんな感じだとか、俺くらいの年代の子が何で遊んでいるのか、何が美味しいのか、どこが楽しい場所だとか色々な事を教えてもらった。
外への願望は無いわけではないが、俺にとって外の世界はおとぎ話にしか聞こえなくて、聞くだけで満足している部分はあった。
やってみたいことがあっても、この身体では誰かと接することさえも不安だ。
だけど、巡は恐れずに俺と接してくれる。
それだけで十分なのかもしれない。
今日も巡が俺に外の話を聞かせてくれた。
こうして頭を撫でられながら、ふわふわの布団の上でぬいぐるみを抱きしめていると、とても穏やかな気持ちになる。
今はこれが幸せ。
今まで感じる事のできなかった人の温もり。
二度と誰かと触れ合うことはできないと思っていた。
だけど、何か寂しい。
何が足りないのかなんてわからない。
何がほしいと聞かれても答えられない。
_不満なんて無いはずなのに。
一つ思い当たる事があるとすれば、俺より先に死んだ同じ施設で育った子達の事だ。
“友達”と呼ぶには、距離が遠すぎるのに“家族”という表現は近すぎる、そんな人達だった。
俺は自分から話したりはしなかったが、皆俺の事を気にしてくれて、決して嫌いではなかった。
ただ、俺は皆に関心が無さすぎた。
今思えば、こんなにも皆が俺の事を考えてくれていたのに、俺は皆の事を考えて行動したことは無かった気がする。
それだけが、本当に後悔してもしきれなかった。
お礼を言いたくても、どんなに謝りたくても、それが叶う日は来ない。
あの人達はもう居ないのだから。
そんな俺が今、こうして幸せを感じていて良いのだろうか。
本来なら、これはあの人達が感じるべきものだったはず。
俺は実験の存在に気づいていた。逃げ切れなかったとしても、「逃げよう」と提案することはできたはずだ。
なのに、俺はその機会をを逃してしまった。
正確には、機会を捨ててしまった。
俺は最低だ。自分の事を受け入れてくれた相手を、見殺しにした。
そんな俺が幸せになるなんて、罰当りにも程がある。
もし、巡に同じことをしてしまったら。
そう考えるだけで怖い。
だけど、口を開けば我儘な理想ばかりが出てくる。
_本当に駄目な奴だ。
気がついたら泣いていた様で、巡が涙を拭いてくれていた。
巡は微笑んだまま、何も言わない。
何も言われない方が、今は楽でいられた。
もし叶うなら、赦されたい。
自由になって、夢を見つけたい。
幸せになりたい、なんてとても言えないけれど。
***
今までの疲れが出たのか、いつのまにか寝てしまっていた様で、目を覚ますと隣で巡が本を読んでいた。
「おはよう、体調は大丈夫?」
時計は午前8時と表示されている。
昼夜問わず光の差さない地下では、この時計だけが、俺にとって時間を知る手段だった。
「体調は大丈夫…元気だよ、だけどお腹空いた…」
しかし、空腹だということを伝えても、一体どうしろと言うのだろう。
暫く『人間の食べ物』は口にしていない。それに、『あれ』を除けば点滴でしか栄養を摂取していない。
そんな状態の体で普通の食事は摂れるのだろうか。
「…嫌かもしれないけど、用意はできるよ」
巡が敢えて、何かを具体的に言わない辺り、それが何かは察しがついた。
しかし、俺はその提案を断った。
「どんなに不味くても良い、少しずつでいいから人間が普通に食べるものが食べたい、巡と同じものが食べたいの」
その言葉を聞いた巡は笑って、
「…そっか、ごめんね。あんまり美味しくはないかもしれないけど、体に負担のかからないものを用意するね」
本を置き、立ち上がった巡は奥の部屋へと向かっていった。
暫く一人で待っていたが、なかなか巡が戻って来ない為、巡の後を追って行った事の無い奥の部屋へ足を踏み入れる。
「あれ、ライヒどうかしたの?」
「鍵、掛けてなかったでしょ。だから付いてきた」
一応監視員なのに、牢に鍵を掛けずに出ていくとは無用心な、他の人にバレたら巡の立場が心配だ。
「鍵?あれなら外したよ。ライヒは僕と対等なんだから、閉じこめる必要なんて無いよね?」
俺が心配していたにも関わらず、巡は最初からそんなものは無かったかの様に振る舞った。
それならここに居ても問題は無いか。
巡が監視員になってから、他の人が巡の様子を見に来る事は無かったし、わざわざ俺から牢に入るのも嫌だ。
俺は巡が何をしているのか気になり、近づいてみた。
部屋はほんのり甘い、どこかで嗅いだことのある臭いが充満していた。
身長が低く、台の上が見えないので巡の隣でぴょんぴょんと跳び跳ねてみたが、「危ないからやめて」と、すぐに止められてしまった。
仕方なく、近くに置いてあった重い段ボール箱を引きずって来て、その上に立った。
鍋に何やら白い物体、見た目はどろどろとしていて、少しホッとするような甘い臭いがする。臭いの正体はこれのようだ。
「これ、何?」
「お粥を作っていたんだけど…、お米を煮るくらいなら僕にもできるし」
お粥は確か、小さい頃に食べた記憶がある。
しかし、巡が今煮込んでいる物は米の形が残っていない、ほぼ液体に近い何かだ。
「もうそろそろかな…?先生が、『柔らかくして消化を良くして食べさせてあげて』って言っていたし」
…柔らかく、というか多分噛めない。そのまま飲み込めそうなくらいだ。
「味付けは無しでって言っていたし、これで完成かな」
やけに自信がある様子の巡に、若干不安になりつつも、煮込んでいる最中の横顔がとても穏やかな表情だったのを見て、本当に自分の事を考えてくれている様な気がした。
先に戻っていてと言われ、絵本を読みながら巡を待っていた。
巡は底が深い皿にさっきのお粥を入れて持ってきた。
皿とスプーンを渡され、スプーンで掬って口に運ぶ。
火傷しないように、少し冷まして持ってきてくれているのが、口に近づけてわかる。
お粥は見た目通り、どろどろで食感も感じない程に柔らかかったが、凄く優しい味がした。
「…美味しい」
巡が料理が苦手なのは、見ていてわかった。でも、このお粥は俺にとって凄く美味しい。
味付けはしていなかったのに、だんだんお粥がしょっぱくなってきた。
「ラ、ライヒどうして泣いてるの?」
慌てた巡が俺の顔をハンカチで拭き始める。
「ごめん、僕が何かした?」
「違うの…、久しぶりにご飯食べて、それが凄く美味しくて…」
涙でぐしゃぐしゃになりながらも、食べる事はやめなかった。
かなり時間はかかったが、皿は空になっていた。
「ありがとう、美味しかった」
精一杯笑って、巡に食器を返す。
「喜んでくれて良かった、僕も料理は苦手だけど頑張って練習するね」
冷たいはずの地下室が温かく感じるほど、穏やかで優しく居心地のいい空気が漂っていた。
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