虚伝と背反 15
また、奥から足音が聞こえてくる。
監視役はもういない、時間もわからない。誰が来るか予想ができない。
先程の一件で、牢の鍵は壊してしまったので、ここから出ようと思えば出られる。
あの薬のお陰か、傷の治りは早い。もう、ほとんど動けるようになっていた。
しかし、逃げるという考えはもう、俺の中には残っていなかった。
本当に逃げ切れるのか、この身体では人と触れ合うこともできるのかわからない。
それに自分は孤児だ、逃げても身寄りなんて、どこにも無い。
「…あの、ご飯持ってきたよ」
声に反応して顔を上げる、そこには監視役と同じ服を着た若い男が立っていた。新しい監視役だろうか。
「…入ってこないで」
俺は男が入ってくるのを、すかさず言葉で阻止した。
「…でも、入らないとご飯渡せないけど」
…意外としつこい。しかし牢に入れて、また他の監視員の様になられても困る。
「そこに置いておいて」
床を指さし、食べ物の乗ったお盆を置くように指示する。
男は渋々お盆を置き、後で回収に来ると言いそのまま戻っていった。
食べ物には手をつけない。前の監視役が食べ物を持ってきた事は無かったのに、怪しすぎる。
血を飲んでいるせいか、空腹感は感じないし食べなくても支障はない。
それに今更、普通の食べ物を食べる気にもなれなかった。
男がお盆の回収に来た。
食べ物が減っていない事から、食べなくては駄目だ等と色々言っていたが、ずっと無視していた。
しかし、男が冷めきったスープを少し飲み、
「…あ、これ美味しくないね。ごめん、次は美味しいのを用意するね」
と、少し笑って言った。
用意されても食べる気は無いのにと、思いながら男の様子を伺っていた。
男はまた来ると言い、お盆を持って戻っていった。
男は何度か来て、何か食べるか聞いてきた。
何度来ても、要らないと答え追い返した。
男が少し落ち込んだ様子で戻っていくのを見ているのは、あまり気分は良くなかったが警戒している以上、そう簡単に首を縦に振る訳にはいかない。
その後、もう一度来た男はもう寝た方が良いと俺に告げ、戻っていった。
寝た方が良いと言われても、なかなか寝つけない。
寝ている間に何があるかわからないから。
向こうがやり方を変えても、俺は従いたくはない。
実験と偽れば俺にどんなことでもできる、どんなことでもする奴等に心を開く必要もない。
また、奥から足音が聞こえてくる。
誰だかわからない、あの口うるさい新しい監視員か、理不尽な暴力を振るう奴等か。
痛い思いは嫌だ、暴力を振るわれるのは嫌だ。
恐怖から動けなくなる、牢の扉の開く音がする。
_きっとまた傷つけられて、傷つけての繰り返しだ。
頭を捕まれ、壁に叩きつけられる。
割れるような頭の痛みに悶絶するも、すぐに別の男に取り押さえられる。
手足を拘束され、痛みのせいで回らない頭と、暗い地下では、自分と周りがどういう状況になっているのか全く把握できなかった。
確かにわかるのは、恐怖と痛みだけで。
自分は今、何をされている?
この感覚は何か、自分は死ぬのか?
考える程更に混乱し、痛みだけが鮮明になる。
_誰か、誰か助けて。
そう叫ぼうとした瞬間だった。
「何をしているのですか」
辺りが少し明るくなったかと思えば、ライトを持ったあの、若い男が立っていた。
俺の方へライトを照らすと、若い男は顔色を変えて、すぐに牢の中へ入り男達を俺から引き離した。
「今の監視役は僕です、勝手な真似は控えていただけますか」
明らかに自分より歳上の暴力男達に、若い監視員は、一歩も譲らずに追い返した。
「酷い怪我だ…、身体も痣だらけ。さっき気づいてあげられなくて、ごめんね」
若い男は、足が動かなくなった俺を抱え、物置にあった柔らかい毛布の上に寝かせた。
「監視役なのに、しっかり見てなくてごめんね、せめて君の手当をさせてね」
男は言い、俺の折れた手足を固定し始めた。
「…なんで、こんな事するの」
俺は辛うじて動く首を男の方へ向け、聞いてみた。
「僕の失敗のお詫び…かな」
暗くてよく見えないが、男は穏やかな表情で俺の頭を撫でた。
人に触られるのは嫌いだけど、この人に触られるのは嫌じゃなかった。
「変な人、前の監視役なんて俺が生きてるかどうかしか確認しなかったのに」
俺がボソボソと呟くと、
「僕は僕なりに職務を全うしたいんだ」
男は少し笑いかけた。
「僕は椿世 巡つばいそ めぐる、君の名前は?」
巡、と名乗った男に名前を聞かれたが、俺には名前が無い。
「名前…無いよ」
俺の言葉を聞いて巡は驚いていた。
「じ、じゃあどう呼ばれていたの?」
戸惑う巡に、自分の番号札を見せた。
「それは番号であって、名前じゃないよ…」
反応に困っている様子の巡にかける言葉が思いつかない。
「_僕が考えていいかな、名前」
暫くの沈黙の後、巡から出た言葉は想像してもいないものだった。
「勿論、君の気に入った名前が思いつくまで頑張るつもりだから…さ、駄目かな?」
少し考えて、俺はその提案を受け入れる事にした。
このまま呼び方が決まらなければ巡にとって不便だろうし、ほんの少しの名前への憧れから来るものだったのかもしれない。
真剣に考え始めた巡の横顔を眺めていた。
どこか寂しそうな目をした、20歳前後に見える青年。
この施設で働く人の中ではかなり若い方だろう。何故ここで働いているのだろうか。
「…そういえばさ、その髪」
巡が声をかけてきて、髪を触ってくる。
「…綺麗だなぁって、思っていたんだよねいくら変色した髪とはいえ、僕はこの色好きだよ」
初めて言われた言葉、今までこの髪の色は好きでなった訳ではないのに、気持ち悪いと言われるから嫌いだった。
「翡翠って知ってる?緑色の宝石なんだけどね、黒っぽい物から色が薄い物もあってね。なんとなくだけど、この髪色を見ていたら思い出して…」
巡は穏やかな表情で髪を撫で続ける。
「綺麗な翡翠、綺麗の麗って漢字には“らい”って読み方もあってね、だから綺麗と翡翠から一字ずつ取って、漢字が難しいからカタカナで_」
巡はポケットからメモ帳とペンを取り出し、何かを書いて紙を剥がし、俺に見せた。
「_“ライヒ”はどう?」
難しい話はわからなかった、だけどこれが自分にとって、嬉しいことだという事に変わりはなかった。
「ライヒ…」
自分の口で発音してみる、今まで名前で呼ばれる事も、名前を与えられる事も無かった俺にとって、確かに自分のものだと胸を張って言えるものができた、それだけで嬉しかった。
「うん…、良いと思う。巡は俺の事、ライヒって呼んで」
人とちゃんと会話したのも、よく考えれば久しぶりの事だ。
会ったばかりのはずなのに、どうしてこんなに助けてくれるのだろう。
巡が何を考えているのかは、よくわからない。
ただ、あまり人と触れ合った記憶の無い俺には今の状況は嫌とは思えない状況にあった
0コメント